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Posted by 滋賀咲くブログ at

2011年02月12日

アートと社会(大阪大学総長 鷲田清一先生講演)

文化・経済フォーラム滋賀設立総会が昨日、琵琶湖汽船ビアンカ船上で開かれました。
当日の様子は滋賀咲くトピックスもご覧下さい。
http://topics.shiga-saku.net/e573836.html

大阪大学総長 鷲田清一先生の基調講演「アートと社会」についての講演メモ。



◇多くの方が美術館という“鑑賞”の場から飛び出している。
地域だったり、障害者支援だったり。教育のひとつの手法としてアートを用いたりも盛んになってきた。昨年の瀬戸内国際芸術祭やあいちトリエンナーレも大盛況であった。
そこでは、人々の新しいつながりがおこっている。
多くの現代アーチストがなぜ、多くのボランティアスタッフを巻き込みながら社会的な活動やムーブメントに加わるようになってきているのか。そのことの意味を考えてみたい。

◇私自身、バブル崩壊で開発が止まり置き去りになった地下空間でのアートイベントに関わった経験がある。1年半ほど準備にかけて、3つの作品を作った。3000本の蛍光灯を使ったアートとか。3週間のイベントであったが、打ち上げのときの2人の言葉が印象に残っている。
アーチストの高橋匡太さんは「自分はここでは作家ではなく一人のスタッフでした。」
つまりは、自分は「one of them」であると言ったわけです。 そして、ボランティアの若い女性スタッフは「先生、人って正しいと思うことが一人一人違うんですね。」あんた、そんなこともわからんとこれまで生きてきたのか。と思ったが、この女性スタッフは、このイベントを通して、一人一人が正しいと思うことが違い、でも一人一人を消さず(否定せず)認め合うことを学んだのではないか。
アートというのは、まさに“教育”のチャンスでもあったんだと思った。
自分がここにいることの意味、職場で仕事をすることの意味に納得できる理由を見つけたい。しかし、その理由がうまく見つけられないという感情を多くの若者が持っているのではないかとも思った。
同じようなことは、専業主婦や高齢者の方にも言えるかもしれない。
仕事を通じて自分の社会的存在を感じることはたやすい。しかし、先の学生や主婦、高齢者はたとえ、地域で色んなサークルやボランティアなどに参加して頑張っても、自分のしてることがあってもいいけどなくてもいいものと思いがち。
「自分の存在理由を見つけられない。」それを見いだすきっかけとしてもアートイベントはいいのではないか。

◇かつて日本社会で自分たちの手で行ってきた事の多くが、その役割を担う行政、企業などプロの手にゆだねられ、税金払ってるからサービス受けて当たり前の「お客様意識」の現代社会。市民であるはずの私たちが、知らぬ間にどんどん受け身になり、無能力な存在になってきてしまっている。
例えば震災が起こると、目の前の川の水を飲めるものにする方法もわからなければ、地域で何かしようとおもっても、隣の人の連絡先さえわからない。こういう社会の変化に対して、アートイベントはデモクラシーのレッスンであり練習であるのではないか。
人々はそれを無意識のうちに行っているのではないだろうか。
アーチストもスタッフの一人として関わり、スタッフも一人一人違う存在であることを認めながら意見をすり合せ、でも一緒に出来るんだと言うことを学ぶ。
アートイベントでは様々な人が役割分担し作業に取り組む。考える人、経理する人、手配する人。他人と一緒に何かしている感覚を持ちやすく、政治や地域の活性化など色々なテーマにもアートを通して入って行ける。身体を動かす機会も多く、体感もしやすい。しかも、労働のようにゴールが決まっていない。やりながら考え、変化して行く。ワクワクすることがアートの面白さでもある。
そういった活動を通して、「考えが違っても、知らない人でも、大事なことについて話し合える能力」を持つことが出来るのではないだろうか。
アートの可能性は、社会が抱える非常に本質的な問題の解決に役立つものであるのではないか。

  

Posted by マツザキ@湖岸のほとり at 09:00Comments(0)アートと社会